2009年8月8日土曜日

8/8 Today 柳田國男が死ぬ(1962)

Wikipedia によれば:

柳田國男 - Wikipedia: "柳田 國男(やなぎた[1] くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は日本の民俗学者である。兵庫県福崎町名誉町民第1号。正三位勲一等。

國男の問題意識と関心は常に歴史学と歴史教育にあった。「自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである」と述べた。そして「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」としている。たとえば、ヨーロッパでは千年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の産業革命の進展のためフォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡がのこっているというのである。 
言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料としてゆたかに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということができるのである。 
日本民俗学の祖としての功績は非常に高く評価できる反面、彼自身の性格・手法によって切り捨てられた民俗があることも指摘されている。例えば、性に関する民俗は言及を避けた。漂泊民、非稲作民、被差別民、同性愛を含む性愛、超国家的民俗など、國男は意図的に無視した"
要は「美しい日本」の元祖なのである。

そう考えれば、『海上の道』も理解できる:
『海上の道』 (沖縄・先島諸島の旅行記が『海南小記』)日本文化が沖縄諸島から南島づたいに伝播してきたという考察。沖縄には稲作文化がなかったことから発表当初は否定されたが、近年の考古学的・言語学的調査などにより南方からの影響もそれなりにはあったとされる。ただ、日本列島の文化を後に構成した要素の多くはやはりユーラシア大陸からもたらされたと近年では考えられている。また國男の「海上の道」論の背景には植民地問題もあったと指摘する研究もある。(村井紀『南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義』岩波現代文庫)
ともあれ、ヨーロッパではキリスト教、民族大移動、産業革命、宗教戦争など(付け加えればエンクロージャーも日本ではなかった)のおかげで散逸してしまった「古俗」が日本列島ではまだ観察できると言うことで、文化人類学的な研究対象としては日本列島は興味深い存在であることは確か。中にはまり込んでニッポン教の信者になってしまわない限り。

ガラパゴスの動植物やパンダみたいなものかもしれない。しかし、動物園に入れられるのは嫌だな〜。

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